【緊急支援】トルコ・シリア地震支援
【ハーティン主催の緊急支援プロジェクトです】
今回のトルコ・シリア地震の緊急支援のためにプロジェクトを立ち上げました。
・集まった寄付金は、トルコにも拠点があり速やかに活動を開始した特定非営利活動法人 難民を助ける会(AAR Japan)へ全額寄付いたします。
・領収書等は、クレジットカード会社発行の領収書のみになります。
・寄付金は、プロジェクト終了の翌月か12月中旬のいずれか早い方に全額活動団体へ寄付致します。(決済手数料、振込み手数料等ハーティン負担)
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日本国内から出来るトルコ支援を少しでも出来ればと思い参加させて頂きました。
なんかちょっとでも力になりたいです!
大変な思いをしている方々にほんの少しでも助けになれば🙏
1日でも早く明るく楽しい日々が戻りますように
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現地の人たちに少しでも早く笑顔が戻ることを願っています。
気持ちだけですが。トルコは親日でとても美しい国ですよね。少しでも役立ちたいです。
対岸の火事に出来ることは限られるけど出来ることをしたい。
トルコ地震支援の緊急募金受付け
活動報告
厳冬下の被災者に緊急物資を届けています
トルコ南東部で6日発生した大地震は、隣接するシリアと合わせ5万人以上の死者が確認されています。3月時点で、1,400万人が家を失い、150万人近くがテント生活を余儀なくされています。AAR Japan[難民を助ける会]は発生直後に支援活動を開始し、食料や衛生用品、毛布などの配付を続けています。
【2月~3月に配付した物資の例】
・食料詰め合わせ(パスタ、コメ、油、豆、オリーブ、チーズなど)
・衛生用品(液体石けん、歯磨き、ウェットティッシュ)、生理用品
・毛布、子ども用おむつ、下着セット
3月中には、地元自治体や他の支援団体とも連携し、農村部など支援が行き届いていない地域の被災者に物資配付する予定です。
震災発生から1カ月以上がたちますが、膨大なニーズに対して支援物資は大幅に不足し、被災者の生活再建のめどは全く立っていません。被災地ではたくさんの人々が私たちの支援を待っています。
※twitterでもトルコ地震被災者支援に関する最新の情報をお伝えしています。ぜひご確認ください。
▼AAR Japanのtwitterはこちら
https://twitter.com/aarjapan?lang=ja
最新活動レポート
▼食料や衛生用品の配付を続けています:トルコ地震緊急支援
2023年2月16日更新
https://aarjapan.gr.jp/report/8943/
▼厳冬下の被災者に毛布や食料を届けています:トルコ地震緊急支援
2023年2月10日更新
https://aarjapan.gr.jp/report/8792/
▼トルコ地震被災地で緊急支援物資を配付:トルコ地震緊急支援
2023年2月8日更新
https://aarjapan.gr.jp/report/8750/
AAR Japan[難民を助ける会]とは
【国連に登録・公認された日本生まれの国際NGO】
1979年にインドシナ難民支援を目的に日本で生まれました。紛争、災害、障がいなどによって困難に直面する人々を支援しています。なかでも特に弱い立場に置かれた方々に、長期的な視点で寄り添います。政治・思想・宗教に偏らない立場で活動します。
これまでに65を超える国や地域で活動。現在は16ヵ国で、人道危機にさらされた人々に必要なものを迅速に届けて命をつなぐ緊急支援と、「地雷・不発弾対策」「障がい者支援」などさらに未来を切り拓くための長期的な支援に取り組んでいます。
トルコと日本の助け合い(ハーティン文責)
●エルトゥールル号遭難事故
1890年9月16日オスマン帝国(現在のトルコの一部)の軍艦エルトゥールル号が、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し、500名以上の犠牲者を出した海難事故
木造の軍艦エルトゥールル号は、1887年小松宮彰仁親王夫妻のイスタンブール訪問に応えるため、日本へ派遣されることになりました。
1889年7月14日にイスタンブールを出港、約11ヶ月かけて1890年6月7日にようやく日本へ到着しました。
横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、6月13日にアブデュルハミト2世からの皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。
その帰路、1890年9月16日21時ごろ、台風の影響による強風にあおられたエルトゥールル号は紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突し、座礁した機関部への浸水による水蒸気爆発が発生した結果、22時半ごろに沈没しました。
これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする600名以上が海へ投げ出されました。
樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりつきました。灯台守は応急手当を行ったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知ります。
通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たりました。この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、米、卵やサツマイモ、それに非常用の鶏すら供出するなど、生存者たちの救護に努めました。
この結果、656名中、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還に成功します。
(司令官のオスマン・パシャを含めた587名は死亡または行方不明)
大日本帝国海軍のコルベット艦である「比叡」と「金剛」が遭難事故の20日後の10月5日、東京の品川湾から出航し、神戸港で生存乗員を分乗させて1891年1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールまで送り届けました。
エルトゥールル号の遭難はオスマン帝国内に大きな衝撃を呼びました。
この海難事故は新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力も大きく伝えられ、当時のオスマン帝国の人々は遠い異国である日本と日本人に対して好意を抱いたといわれています。
●日本人を救ったトルコ航空イズミル号
1985年のイラン・イラク戦争で、イラクは、イラン上空の航空機について、48時間後から無差別に攻撃すると宣言しました。
当時の日本は、自衛隊による在外邦人救援ができず、日本で唯一国際線を運航していた日本航空も「安全の保証がされない限り臨時便は出さない」とし、イラン在住の日本人215名が脱出できない状況に陥りました。
日本の大使がトルコの大使に窮状を訴えたところ、ビルレル全権大使は「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールルの遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきましょうとも」と答え、ビルレル全権大使の要請を受けたトルコ航空は自国民救援のための旅客機を2機に増やし、オルハン・スヨルジュ機長らがフライトを志願した。
215名の日本人はこれに分乗し、全員トルコのアタテュルク国際空港経由で無事日本へ帰国できました。
トルコ機は、陸路での脱出もできる自国民より日本人の救出を優先。この救援機に搭乗できなかったトルコ人約500名は、自動車でイランを脱出しています。
世界には今この瞬間も様々な支援を求めている人たちがおり、懸命にその支援をしている団体があります。
残念ながら私たちはその全員に対し義援金、支援金をお渡しすることはできません。
不公平感があるかもしれませんが、ハーティンではその時の状況を鑑みて今後もハーティン主催の緊急支援プロジェクトを立ち上げてまいります。
ハーティン主催プロジェクトは、寄付金全額を支援団体へ寄付し、手数料はハーティンが負担いたします。
不自由なテントの避難生活:現場レポート
大きな被害を受けたトルコ南東部シャンルウルファ県。県都シャンルウルファ市内の広場には、被災者のために仮設されたテントが並び、幼い子どもを含む約500人が過ごしています。40代のアフメットさん・ガラーさん夫婦と4人の子どもたちも、ここに身を寄せています。
アパートの3階で暮らしていたアフメットさんは、「地震が起きたのはとても寒い日で、激しい揺れで目が覚めました。すぐに子どもたちを部屋の片隅に集め、身を寄せ合って、いつ天井が落ちてくるかと身構えるしかありませんでした。私たちは死ぬのを待っていたのです」と話します。
最初の揺れが収まった後、急いで子どもたちに服を着せ、近所の住民が集まっていた大きな店舗に避難しました。「家を失った人たち、泣きじゃくる子どもたちの姿を目の当たりにして、本当につらい気持ちでした。間もなく2度目の地震が起きて人々はパニック状態になり、私たちは冷たい雨の中、屋外の安全な場所を求めて走りました」。ガラーさんはこう付け加えます。「私たちはただ祈り続け、アッラー(神)の赦しと助けを求めるしかなかったのです」。
一家はこの1週間、今にも壊れそうなテントで耐えています。ガラーさんは「薪ストーブが配られましたが、この寒さで暖房は充分ではありません。子どもたちのことが心配で、特に5歳の娘イレムはよく眠れず、テントが風で揺れるととても怖がります」。ガラーさんをはじめ女性たちに話を聞くと、生理用品・衛生用品、子ども用ミルクが特に入手できないということで、AARはこうした支援物資の調達を急いでいます。